登山中に同行者が突然倒れたとき、あるいは自分の体に見慣れない異変を感じたとき、「疲れのせいだろう」と歩き続けることが最も危険な判断になりえます。山の中では救急車は来ません。症状を正しく読み、素早く行動を止め、適切な順序で助けを求めることが、命をつなぐ唯一の手段です。
心臓と脳に関わる急病は、登山中の死亡や重篤な後遺症につながる可能性が高い急変です。どちらも「時間との勝負」という性質を持ち、発症から処置までの時間が予後を大きく左右します。しかし山では病院までの時間がどうしても長くなるため、現場での初動——症状の見極め、119番通報、応急処置の開始——が平地以上に重要になります。
この記事では、登山中に起こりうる心臓・脳の急変について、見逃しやすい兆候の見分け方、その場でできる対応の手順、下山か救助要請かの判断基準を、具体的に整理します。
心臓の急変——胸の症状を軽く見ない
山で起きやすい背景
登山は有酸素運動の中でも心臓への負担が大きい活動です。急登での心拍数上昇、寒冷環境による血管収縮、脱水、高度による低酸素状態が重なると、平地では問題のなかった人でも心臓に過大な負荷がかかることがあります。
見逃せない兆候
次のような症状が現れた場合は、心臓に関わる急変を疑う必要があります。
- 胸の締め付け・圧迫感・痛み:「重い石を乗せられたような感覚」と表現されることが多く、鋭い刺すような痛みとは異なります。
- 左肩・左腕・顎・背中への放散痛:胸ではなく腕や顎が痛むだけのケースもあります。
- 冷や汗・吐き気・強い倦怠感:これらが胸の違和感と同時に現れる場合は要注意です。
- 脈の乱れ・動悸:安静にしていても脈が飛ぶ、異常に速い、不規則に感じる。
「山だから運動で胸が苦しいのは当然」という思い込みが危険です。休憩しても改善しない、あるいは安静中にも続く胸部症状は、運動による疲労とは異なります。
心肺停止への移行——AEDと心肺蘇生
意識を失い、正常な呼吸がない(または10秒以上確認できない)場合は心肺停止を疑います。
- 大声で周囲に助けを求める
- 119番(または110番)に通報し、ヘリ要請の可能性を伝える:山岳地では消防・警察・山岳救助隊の連携が必要なことを伝えてください。
- 胸骨圧迫を開始する:胸の中央(胸骨の下半分)を、1分間に100〜120回のペースで強く・速く押します。深さは約5〜6cmが目安です。疲れたら交代しながら続けます。
- AEDがあれば使用する:登山口・山小屋にAEDが設置されている山域もあります。事前に設置場所を確認しておくことが有効です。
胸骨圧迫は習得には講習が必要ですが、日本赤十字社や消防署が全国で講習を開催しています。登山を続けるなら一度受講しておくことを強くすすめます。
脳の急変——FACTで兆候をつかむ
脳卒中とは
脳卒中は、脳の血管が詰まる(脳梗塞)か破れる(脳出血・くも膜下出血)ことで起きます。高所・脱水・寒冷は血液の粘性を高め、発症リスクを押し上げる要因として知られています。脳卒中は発症から治療開始までの時間が短いほど回復の可能性が高まるとされており、山の中での発症は特に迅速な判断が求められます。
FAST:脳卒中の兆候チェック
脳卒中の初期兆候を素早く確認するための国際的な指標に「FAST」があります。
- **Face(顔)**、具体的なチェック方法:笑ってもらう。口や顔の片側だけ下がっていないか
- **Arms(腕)**、具体的なチェック方法:両腕を前に水平に伸ばしてもらう。片方だけ下がってこないか
- **Speech(言葉)**、具体的なチェック方法:簡単な言葉を繰り返してもらう。呂律が回らない・言葉が出ないことはないか
- **Time(時間)**、具体的なチェック方法:上記のどれか一つでも当てはまったら、すぐに救助を要請する
このほか、突然の激しい頭痛(「これまでで最悪の頭痛」と表現されることが多い)、片目や両目の視野が欠ける・ぼやける、体の片側だけがしびれる・動かしにくい、なども重要な兆候です。
対応の手順
- その場で行動を止め、安全な場所に横にする:傾斜のある場所を避け、平坦で風雨を避けられる場所を選びます。
- 119番または110番に通報する:GPS座標(登山アプリで確認できる場合が多い)、現在の症状、パーティの人数を伝えます。
- 意識がある場合は体を横向きにする:嘔吐した場合に気道を塞がないよう、回復体位(横向きで膝を曲げ安定させる姿勢)が基本とされています。
- 体を温め、飲食はさせない:意識が低下している人への飲食は誤嚥(食物が気道に入ること)の危険があります。
- 症状が現れた時刻を記録する:救助隊や医療機関に伝える情報として重要です。
「歩いて下山」か「その場で救助要請」か
この判断は難しいですが、次の考え方が一つの基準になります。
その場で救助を要請する目安
- 意識が低下している、または意識を失った
- 心肺停止の状態である
- FASTのいずれかに当てはまる
- 胸の症状が安静にしても続いている
- 自力で歩くことが明らかに困難
慎重に下山を検討できる目安(ただし必ず複数人で)
- 意識が完全に清明で、症状が完全に消えた
- 低体温・脱水・疲労など原因が明らかで、対処後に回復した
- 下山ルートが短く、自力歩行に負担がない
重要なのは、「今は大丈夫そう」という主観的な判断を過信しないことです。脳梗塞の初期症状は一時的に消えることがあります(一過性脳虚血発作と呼ばれます)が、その後に重篤な発作が起きるリスクがあります。症状が一度出た場合は、「消えたから大丈夫」と判断せず、医療機関での確認を強くすすめます。
事前の備え——山に入る前にできること
急病への対応力は、山に入る前の準備で大きく変わります。
- 持病・内服薬の確認:高血圧・糖尿病・心疾患がある場合は、登山前に主治医に相談することが基本です。薬の携行と、緊急時に同行者が薬の種類を確認できるようにしておくことも重要です。
- 緊急連絡先と現在地の共有:登山届に緊急連絡先を記載し、下山予定時刻を必ず誰かに伝えます。
- 山岳保険への加入:ヘリコプターによる救助には費用がかかります。山岳保険や遭難捜索費用補償付きの保険の確認を事前に済ませておきます。
- 通信手段の確認:携帯電話が圏外になる山域では、衛星通信機器や登山無線の活用も選択肢になります。どの山域でどの通信手段が使えるかは、事前に各自治体や山小屋の情報で確認します。
- AED・救急処置の講習受講:日本赤十字社や消防署の救命講習は数時間で受講できます。
次の行動
胸・脳の急変の兆候と対応を頭に入れたうえで、次に登山届の提出と緊急連絡先の記載を習慣にしてください。持病がある方は、次の登山の前に主治医に「この計画で問題がないか」を確認することを強くすすめます。個別の症状への対処は医師や救急の専門家に相談してください。YAMATOMOの認定ガイドへの依頼機能を使えば、経験あるガイドと同行する計画も立てやすくなります。
参考資料
- 警察庁「山岳遭難の概況」
- 消防庁「救急救助の現況」
- 日本赤十字社「救急法講習テキスト」
- 日本脳卒中学会「一般向け脳卒中啓発資料」
- 日本循環器学会「心肺蘇生ガイドライン関連資料」