登山の案内書やルート説明で「トラバース」という言葉が出てきたとき、どんな動きを指しているのか迷うことがあります。トラバース(traverse)とは、斜面を横方向に横切って歩くことです。山頂へ向かってまっすぐ登り下りするのではなく、等高線に沿うように水平または緩やかな斜め方向に移動します。
この動きが登山に必要な理由は地形にあります。稜線や沢を避けてルートをつなぐ場面、急斜面を直登せず安全に高度を上げる場面、山の反対側へ乗り越す場面など、トラバースはルートのあちこちに組み込まれています。「トラバースが長い」と書いてあれば、斜面を横に歩く区間が続くと理解できます。
初心者にとってトラバースが難しいのは、体の向きと重心の扱いに慣れが必要だからです。この記事では、トラバースがどういう場面で現れるか、体をどう使うか、どこで特に注意するかを順番に説明します。
トラバースが現れる場面
登山地図で「巻き道」と表記されているルートの多くはトラバースです。尾根の急峻な部分を直登せず、山腹を横切って先のコルや稜線へ出る設計になっています。
もう一つよく見られるのが、雪渓や岩場を避けて安全な地形を選ぶ場面です。夏山でも残雪が残る谷筋を横断するとき、斜面の下端を水平に移動してから登り返す、という行程が生まれます。
案内書で「○○のコルへのトラバース」と書かれている場合、そのコルに直接登り上げるのではなく、山腹を斜めに横切りながら高度をかせぐことを意味します。ルート図と地形図を照合して、どの斜面をどの向きに歩くのかをあらかじめ確認しておくと、現地での迷いが減ります。
体の使い方——重心とステップの基本
平地の歩き方と最も違う点は、足の置き方です。斜面を横切るとき、谷側の足と山側の足とで地面との角度が異なります。そのまま両足を平行に置こうとすると、谷側に体が傾きやすくなります。
基本として覚えておきたいのは「山側の足のかかとを落とす」意識です。山側の足は膝が曲がりにくい角度になりがちなので、意識的にかかとを斜面に押しつけてフラットに接地します。谷側の足も同様にソール全体を使い、つま先だけで乗らないようにします。登山靴のソール全体で斜面を踏む「フラットフッティング」は、トラバースで特に重要な基本技術です。
ストックを使う場合、谷側のストックはやや長め(またはグリップを下に持ち替える)、山側は短めに調整すると左右の高さの差を補いやすくなります。両手のストックを同じ長さのまま斜面を横切ると、山側の腕が突っ張って体のバランスが崩れることがあります。
重心は常に足の真上か、わずかに山側に置く意識が安全です。谷側へ体を預けたまま次の足を出すと、ずれたときに止まりにくくなります。
特に注意が必要な条件
濡れた草付きと泥
草や土が濡れている斜面のトラバースは、乾燥時と比べてすべりやすさが大きく変わります。登山靴のソールが優秀でも、泥の乗った草の上では摩擦が期待通りに働かないことがあります。一歩ごとにしっかり体重を乗せて足場を確認してから次の足を出す、「三点支持」に近いゆっくりとした歩き方が基本です。
残雪・硬い雪面
春から初夏にかけての高山では、日陰の斜面に硬く締まった雪が残ることがあります。軽アイゼン(4〜6本爪)やチェーンスパイクでは歯が短く、傾いた硬雪面では十分に刺さらないことがあります。残雪トラバースが予想されるルートでは、必要な軽アイゼンや10〜12本爪アイゼンの歯数と、その使い方を事前に確認してから行動してください。雪の状態や必要装備の判断は、その山域の山小屋や自治体の登山情報窓口に問い合わせるのが確実です。
落石・浮き石
斜面を横切るとき、自分の足元だけでなく上方の状況も意識します。特に他のパーティが上に入っている場合、小石が落ちてくることがあります。ヘルメットは頭上からの落石に有効であり、岩が多い斜面でのトラバースでは着用を検討してください。
下りのトラバースで失敗しやすい点
登りより下りのトラバースのほうが事故は起きやすい傾向があります。理由は二つあります。一つは疲労が蓄積しているため、一歩ごとに体重をきちんと乗せる集中力が落ちること。もう一つは、下り方向へ引っ張られる重力を抑えながら横方向に動かなければならない点です。
下りのトラバースでは「斜面の下側を見ない」ことが集中力の維持に役立ちます。谷底を見ると無意識に体がそちらへ引っ張られ、重心が谷側に乗りやすくなります。視線は次の足場の少し先、水平方向に向けます。
また、下りでは膝への負担が増えます。膝が痛い場合は、無理に一定ペースで歩き続けず、足場のしっかりした場所で小休止を挟みながら進むことが、最終的な安全につながります。持病や痛みが続く場合は医師に相談してください。
判断基準——引き返す目安
トラバース区間で「これは自分には難しい」と判断することも大切な技術です。次のいずれかに当てはまる場合は、無理に進まず引き返すか、経験者の同行を求めることを検討してください。
- 足場が狭く、次のステップが判断できない
- 斜面の角度が急すぎてフラットに足を置けない
- 靴底が土や雪でいっぱいに覆われてグリップが確認できない
- 天候が急変して視界や足場が悪化している
- 通過に必要な装備(アイゼンなど)を持っていない
「もう少し先に良い足場があるかもしれない」という期待で進み続けることが、引き返せない状況をつくります。引き返せる体力と時間が残っているうちに判断することが、登山の安全の基本です。
次の行動
近くの低山で傾斜の緩やかな巻き道を選び、フラットフッティングを意識しながら短いトラバース区間を歩いてみることが最初の練習になります。YAMATOMOの「ベースキャンプ」では、同じ技術を磨きたい登山者や認定ガイドを探すこともできます。ルートに残雪トラバースが含まれる場合は、事前に山域の自治体または山小屋の公式情報で装備と状況を確認してから入山してください。