「日本人はいつから山に登っていたのか」という問いに、一言で答えることはできません。なぜなら「登山」という行為の意味が、時代ごとにまったく異なっていたからです。修験者が山を「修行の場」として踏んだ時代、富士講の信者が「霊峰に詣でる」ために列をなした時代、そして明治以降に「山頂を目指すこと自体に価値がある」という考え方が持ち込まれた時代——これらはいずれも「山に登る」行為でありながら、目的も装備も文化も根本から異なります。
この記事では、日本の登山史を「信仰登山」「禁制と民衆登山」「近代登山の導入」「戦後の大衆化」という四つの段階に整理します。年表を追うことで、現代の私たちが当然のように使っている「登山」という概念が、意外に新しい輸入品であることが見えてきます。
信仰登山の時代——山は「登るもの」ではなく「詣でるもの」だった
日本最古の登山記録として広く参照されるのは、奈良時代の役小角(えんのおづぬ)による大峯山の修行です。正確な記録は後世に書かれたものが多く、史実と伝説の境界は慎重に扱う必要がありますが、7〜8世紀ごろには山岳修行の概念が成立していたと考えられています。
この時代の「登山」は、現代的な意味での登山とはまったく異質です。山は神仏が宿る聖域であり、修験者(山伏とも呼ばれます)が修行の場として分け入るものでした。山頂を踏むこと自体が目的ではなく、修行の過程で山の霊力と向き合うことが本質でした。装備も現代とは異なり、法衣・法螺貝・金剛杖といった宗教的な道具が中心です。
平安時代には比叡山・高野山・吉野・熊野など特定の山が「霊場」として整備され、寺院・宿坊・登山道が組み合わさった宗教的インフラが形成されました。この時期に整備された道の一部は、現代の登山道の原型にもなっています。
江戸時代——禁制と開放、民衆登山の広がり
近世に入ると、富士山を中心とした「講(こう)」組織による集団登山が広がります。富士講は江戸時代中期から後期にかけて関東を中心に急速に拡大し、多くの庶民が生涯に一度の「富士詣で」を目指しました。これは宗教的な動機による行為でしたが、集団で資金を積み立て、順番に代表者が登る仕組みは、日本独自の「大衆登山文化」の萌芽と見ることができます。
ただし、江戸時代の多くの山は「女人禁制」でした。富士山も、山頂の一部あるいは全体への女性の立ち入りが制限されていた時期があります。この禁制が徐々に解かれていくのは明治以降のことです。女性登山者の歴史を追うと、近代化の流れと登山文化の変化が重なって見えます。
立山や白山など、各地の霊山でも同様の構造が見られます。登拝口(山への入口)には社寺が設けられ、ガイド役の「先達(せんだつ)」が同行しました。先達は現代の認定ガイドの原型とも言える存在です。道案内だけでなく、儀礼の進行・安全確保・宿の手配まで担っていました。
明治以降——「近代登山」という概念の輸入
日本の登山史において明治時代は大きな転換点です。1868年の明治維新後、政府は「神仏分離令」「修験道廃止令」などを相次いで出し、これまでの信仰登山の制度的基盤を大きく変えました。女人禁制も多くの山で解除されます。富士山の女人禁制が公式に廃止されたのは1872年(明治5年)のことです。
同時期、欧米から来日した外国人が日本アルプスをはじめとする山岳地帯を踏破し始めます。イギリス人外交官ウォルター・ウェストンは1891年から日本各地の山を登り、1896年に『日本アルプスの登山と探検』を著しました。この著作は欧米に日本の山を紹介しただけでなく、「山頂を目指す行為そのものに意味がある」という近代的な登山思想を日本にも逆輸入する役割を果たしました。
1905年(明治38年)に日本山岳会が設立されます。これは日本初の本格的な登山団体であり、近代的な登山技術・記録・文化の普及に大きく貢献しました。この時代から、登山は「信仰の実践」から「スポーツ・文化的活動」へと性格を変えていきます。
明治・大正期の登山は依然として一部の知識人・文人・軍人など限られた層のものでした。装備は欧米のものを模倣しつつ、日本の山の特性に合わせた改良が試みられました。この時代の山岳記録を読むと、現在の私たちには当たり前の「地図・コンパス・防寒具」が、当時の登山者にとって試行錯誤の対象だったことがわかります。
昭和前期から戦後——登山の大衆化と現代への接続
1930〜40年代、山岳部を持つ学校・大学が増え、若い世代の間で登山が広まります。同時にこの時代は、登山技術の高度化と軍事的な文脈が交差する複雑な時期でもあります。戦時中の登山活動は制限・抑制された側面もあり、山岳文化が「国威発揚」と結びつけられた面もありました。
戦後の高度経済成長期に入ると、登山は急速に大衆化します。1950〜60年代には鉄道・バスの整備が進み、山岳地帯へのアクセスが改善しました。登山用品を扱う専門店が都市部に増え、ナイロン製のロープ・軽量テント・防水雨具など素材の革新が装備を劇的に変えます。
1964年に深田久弥が『日本百名山』を発表すると、「百名山を集める」という新しい登山の動機が生まれました。これは信仰登山の「霊場巡礼」とも、近代登山の「未踏峰への挑戦」とも異なる、コレクション的な楽しみ方です。この考え方は現在も根強く、多くの登山者が百名山踏破を目標にしています。
1970〜80年代のアウトドアブームを経て、登山は「危険で特別な行為」から「休日の余暇活動」へと位置づけが変わります。同時に、道標・山小屋・救助体制などのインフラ整備が進んだことで、初心者でも比較的安全に山を楽しめる環境が整いました。
歴史を知ることが今の登山に与える視点
日本の登山史をたどると、「なぜ登るのか」という問いに対する答えが、時代ごとにまったく異なることが見えてきます。信仰・修行・探検・スポーツ・レクリエーション——これらはどれも「登山」という言葉の下に並んでいますが、それぞれ異なる文化と技術と倫理観を持っています。
現代の登山者が山で出会うさまざまな習慣や文化——山頂での礼拝、山小屋のルール、登山道整備への寄付文化——には、信仰登山や近代登山からの積み重ねが反映されています。山の歴史を少し知っておくことで、山での経験が単なる「自然の中の運動」を超えた奥行きを持つようになります。
また、歴史を振り返ると「登山の安全」に対する考え方も変化してきたことがわかります。先達が同行する江戸時代の集団登山、明治期の探検的登山、そして現代の事前計画・装備確認・登山届——それぞれの時代が、その時代なりの安全管理の知恵を持っていました。現代の安全基準はその積み重ねの上にあります。
次の行動
日本の登山史に関心が出た方は、国立国会図書館デジタルコレクションや各地の山岳博物館(穂高・上高地周辺など)で一次資料・展示に触れてみてください。山域ごとに独自の登山史があるため、訪れる山の歴史を事前に調べておくと、山行の読み方が変わります。YAMATOMOのマガジンでは、信仰登山や個別の山域の歴史についても個別の記事で深く扱っています。
参考資料
- 深田久弥『日本百名山』(文藝春秋)
- ウォルター・ウェストン『日本アルプスの登山と探検』(岩波文庫)
- 日本山岳会(公式サイト・刊行物)
- 国立国会図書館デジタルコレクション(近代登山関連資料)
- 文化庁「霊場と参詣道」世界遺産関連資料