2019年、ネパール出身のニルマル・プルジャ(Nirmal "Nims" Purja)は、地球上に14ある標高8,000メートル超の山すべてに登頂しました。かかった日数は189日、約6か月あまりです。それまでの最速記録は約7年11か月でした。この数字だけを見ると、人間の限界という概念そのものを問い直す出来事だったといえます。
「なぜそれほど速いのか」「普通の人間にできることなのか」——この記事を検索した人の多くは、そういった疑問を持っているはずです。ニムス(愛称)の記録は単なる速さの話ではなく、登山の体力的限界・酸素補給の考え方・チームワーク・個人の意思決定、これらすべてが複雑に絡み合った出来事です。以下では、彼の経歴・記録の背景・登山界への影響を順を追って整理します。
軍人としての下地
ニルマル・プルジャは1983年にネパールのダラン近郊で生まれました。若いころにイギリス陸軍に入隊し、グルカ兵(ネパール人を中心とした英国陸軍部隊)として長く服務します。その後、英国特殊部隊(SBS:Special Boat Service)に選抜され、数年間在籍しました。
軍での訓練と実戦経験が、彼の身体能力と精神面に与えた影響は大きいと見られています。高強度の活動を継続する習慣、計画の緻密さ、予期しない事態への対応力——これらは極地的な高所登山に求められる資質と重なります。ヒマラヤ登山を本格的に始めたのは2012年ごろで、登山歴としては比較的短い段階で8,000メートル峰に取り組み始めました。
彼が軍を退役して登山家としてのキャリアに専念したのは、14座プロジェクトを前にした時期です。プロジェクト・ポッシブル(Project Possible)と名づけられたこの挑戦には、スポンサー集めや資金調達という現実的な壁もありました。当初は資金が集まらず、家や車を売却して費用を工面したとも伝えられています。
189日間の軌跡
2019年4月23日にアンナプルナ(8,091m)に登頂してプロジェクトが始まり、同年10月29日にシシャパンマ(8,027m)に登頂して完結しました。14座の内訳は、ネパール・中国にまたがるヒマラヤおよびカラコルムの山々です。エベレスト(8,849m)、K2(8,611m)、カンチェンジュンガ(8,586m)、ローツェ(8,516m)などが含まれます。
期間中、一つの山の登頂から次の山のベースキャンプへの移動は、ときにヘリコプターや航空機を組み合わせて行われました。この移動手段をめぐっては「純粋な登山とはいえない」という意見と「移動方法に制限はない、登頂の速さを競っている」という意見が登山界で交わされました。彼自身はプロジェクトの目的を「人間の可能性の再定義」と説明しており、アルパインスタイル(無酸素・小規模)の純粋主義とは異なる価値観から出発しています。
14座のうち多くの山では補助酸素を使用しています。高所では空気中の酸素分圧が地上の3分の1以下になる場合があり、補助酸素なしに8,000メートル帯で活動できる時間は大きく制約されます。ニムスは酸素使用を隠しておらず、「補助酸素は道具の一つだ」という立場を明確にしています。一方、無酸素登頂にこだわる登山家も多く、どちらが優れているというものではなく、目標設定の違いとして理解する必要があります。
チームと協力体制
ニムス一人で全行程を行動したわけではありません。登山仲間や現地スタッフ(シェルパ)とのチームで各山に臨んでいます。彼が強調するのは、チームのメンバーとの信頼関係と連携です。山頂への最終アタックに一人で向かう場面もありましたが、ルート工作・荷揚げ・ベースキャンプ管理には複数のメンバーが関わっていました。
また、登頂途中に遭難者を発見した際に救助活動を行い、その分だけスケジュールが遅れる場面もあったと伝えられています。記録挑戦と人命救助が同時に発生した場合にどう判断するか——これは極地的登山の現実が凝縮された問いです。ニムスは救助を優先した場面が複数回あったとされており、そのことが彼への評価を高める一因にもなっています。具体的な経緯は彼自身の著作(後述)に詳しく記されています。
記録が登山界に問いかけたこと
189日という記録は、登山界にいくつかの問いを投げかけました。
速さと安全のトレードオフ:8,000メートル峰の登山では、山頂に長くとどまるほどリスクが高まります。速く動けることは必ずしも危険ではなく、高所滞在時間を短くするという意味では安全側に働く面もあります。ただし、連続登山によって体が回復する時間が削られるため、累積疲労の管理という別のリスクが生まれます。
補助酸素と記録の区分:登山界には「酸素あり」「酸素なし」を別の記録として管理する慣習があります。ニムスの記録は補助酸素使用前提のものとして位置づけられており、無酸素での14座最速記録とは別に存在しています。どちらを評価するかは価値観の問題です。
商業登山と記録挑戦の境界:ヒマラヤ8,000メートル峰の登山には政府への許可申請(パーミット)が必要で、費用は山や時期によって異なります。複数の山を連続して登るためには多額の費用がかかります。ニムスの挑戦はスポンサーと事前の計画なしには成立しなかった点で、個人の体力だけでなく資金と組織運営の問題でもありました。
後続への影響:ニムスの記録以降、14座を数年以内に登頂することを目標とする登山家が増えたと見られています。「不可能ではない」という認識が生まれたことで、目標を大きく設定する登山家が現れやすくなっています。一方で、準備不足のまま高所に向かうリスクを指摘する声もあり、記録の一人歩きには注意が必要です。
人物としてのニムスを理解するための視点
ニルマル・プルジャはNetflixドキュメンタリー「14 Peaks: Nothing Is Impossible」(2021年公開)で世界的に知られるようになりました。自著「Beyond Possible」も出版されており、プロジェクトの全体像と個々の登頂の判断をより深く知ることができます。
彼を「英雄」として単純に描くだけでは、登山の現実に触れることにはなりません。彼の経験から読み取れるのは、明確な目標設定・身体能力の長期的な積み上げ・チームへの信頼・リスクと利益の都度判断、という登山における基本的な要素が極限まで拡大された姿です。
一般的な登山者にとってニムスの記録が直接の参考になることはほとんどありません。しかし、「なぜ準備をするのか」「チームとどう動くか」「撤退と前進をどう判断するか」という問いは、初級の山から8,000メートル峰まで共通しています。ニムスの選択の連続を追うことは、その問いを鋭く考えるための素材になります。
次の行動
ニルマル・プルジャの記録に興味を持ったなら、まず「14 Peaks: Nothing Is Impossible」を見るか、「Beyond Possible」を読むことをおすすめします。自分の登山計画を立てる際には、YAMATOMOの認定ガイド機能で経験豊富なガイドを探し、目標の山に合った準備の考え方を確認してみてください。
参考資料
- 「Beyond Possible」Nirmal Purja 著(Viking / Hodder & Stoughton)
- 「14 Peaks: Nothing Is Impossible」Netflix ドキュメンタリー(2021年)
- 国際山岳連盟(UIAA)公式情報
- 8,000メートル峰パーミットに関するネパール観光省・中国チベット自治区関係機関の公式情報